関西・北海道・東北・関東・信越・北陸・東海・近畿・中国・四国・九州・沖縄で貸切バスなら『バスイコ・マックトラベルサービス』へ!

お気軽にお問合せください

079-670-2727

営業時間

10:00〜18:30 (日曜休)

NHK大河ドラマ 黒田官兵衛ゆかりの地/厳選ぶらり旅なら!!

生涯50数度の合戦でも負けを知らなかった戦の天才と言われ、その類い稀なる智謀と軍略で名をはせ、豊臣秀吉の天下取りを支えました。敬虔なキリシタン大名など奥深い人格を重ね持った彼は注目が集まる存在。官兵衛の軌跡を辿ると、その流れの中に大きな歴史ロマンが見え隠れします。 

黒  官  衛 略 歴

西暦

年 号

数え年

出 来 事

1546

天文15年

1歳

姫路城主黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で官兵衛誕生(幼名・萬吉)

1559

永禄 2年

14歳

母・岩を亡くす

1561

永禄 4年

16歳

主君・小寺政職(こでらまさもと)の近習となる

1562

永禄 5年

17歳

元服し、官兵衛孝高(よしたか)となる。父と共に土豪を征伐し、初陣。

1567

永録10年

22歳

志方城主・櫛橋氏の娘、光姫(てるひめ)を娶る。家督を継ぎ、姫路城主に

1568

永録11年

23歳

嫡子・長政(幼名・松寿丸)誕生

1575

天正 3年

30歳

小寺政職を説得、織田信長に帰属することを決める。信長より名刀を賜る 

1577

天正 5年

31歳

英賀にて毛利軍五千の兵を五百の寡兵で退ける

1578

天正 6年

33歳

摂津国有岡城主・荒木村重が信長に謀反。単身説得に向かうも捕縛され幽閉

1579

天正 7年

34歳

有岡城落城、救出される

1580

天正 8年

35歳

秀吉に姫路城を譲り、国府山城に移る。揖東郡等1万石を与えられる

1581

天正 9年

36歳

鳥取城攻め、兵糧攻めを実施

1582

天正10年

37歳

秀吉に従い、備中平定に出陣。本能寺の変、秀吉に中国大返しを進言

1583

天正11年

38歳

大坂城築城の縄張り(城の設計)を行う。キリスト教に入信(洗礼名・シメオン)。

1587

天正15年

42歳

本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国6郡、12万石を拝領。中津城主となる。

1589

天正17年

44歳

家督を嫡男長政に譲り、隠居。如水と名乗る

1590

天正18年

45歳

小田原討伐にて北条氏との講和をまとめ、無血開城させる。

1600

慶長 5年

55歳

関ヶ原の合戦では東軍に属し挙兵。筑前国名島(福岡)に移る。

1601

慶長 6年

56歳

上方での加増が提示されるが辞退。隠居生活に入る。

1604

慶長 9年

59歳

京都伏見藩邸にて逝去。葬儀は博多の教会で行われる

(1)姫路城(姫路市本町)

白鷺城とも呼ばれる現在の姫路城は関ヶ原合戦の後に池田輝政が築いたもので、現在の姿に改められたのは1601年の大改築によるものですが、『姫路城史』によれば黒田氏時代にも小さな城があり、官兵衛はここで天文15年の11月29日(1546年)に誕生しました。

官兵衛は歴代姫路城主48人の中でただ一人、姫路城で生まれた姫路城主とされます。

 バス種類についてはこちらへ

(3)英賀城址/英賀神社(姫路市飾磨区英賀宮町)

英賀城は播磨の守護大名であった赤松一族の城。嘉吉の乱の後、勢力を失い没後は代々三木氏の居城となりました。戦国時代の後半、天正8年(1580)秀吉により滅ぼされ、城のみならず町全体が火の海となり、一夜にして全てが焼失したといわれていますが、「英賀神社」には、失われた巨城・英賀城の土塁が今も残されています。作家・司馬遼太郎の先祖は英賀に籠城した武将とされ、官兵衛に敵対していたとされます。境内には、「播磨灘物語」の文学碑が立っています。

 バス種類についてはこちらへ

(4)松原八幡神社(姫路市白浜町)

松原八幡神社は天平宝字7年(463)、宇佐八幡宮から分霊を勧請して創祀。祭神は品陀和気命、息長足姫命、比咩大神の三神。秋季例大祭の「灘のけんかまつり」はよく知られています。天正元年(1573)、この事に怒った別所長冶の兵により、七堂伽籃四十八坊は全て焼き払われました。天正12年(1584) 松原八幡神社の僧、快祐が社殿を復興。秀吉が天下平定後、この神社を城南の芝原に遷すように命じましたが、松原は由緒ある地だと諭し、この地での存続を懇願したのが、官兵衛であると言われています。

 バス種類についてはこちらへ

(5)播磨国総社(姫路市総社本町)

延喜式神名帳記載の古社で、正式には射楯兵主神社といいます。播磨国総社(惣社)は歴代姫路城主の崇敬を受けてきたが、永禄十年(1567)、重隆の没後、家督を継いだ職隆も総社の拝殿や表門を再建。天正8年(1580)、揖東郡福井庄(網干周辺)に1万石を与えられた官兵衛も播磨国総社に新しく制定した黒田家軍旗の祈祷を受け、天正10年には制札を与えるなど、その保護に務めました。

 バス種類についてはこちらへ

(6)広峯神社/御師屋敷(姫路市広峰山)

重隆は、広峯神社の御師(神符を全国に売り歩いていた布教者達)に黒田家秘伝の目薬を一緒に売ってもらうことで財を成し、金融業で勢力を広げ、後の黒田家発展の基礎を築いたと言われています。広峯神社は奈良時代に吉備真備が唐から帰国の折、神託により社殿を造営、明石浦より牛頭天王を勧請して広峯社と称した古社です。

 バス種類についてはこちらへ

(7)御着城址(姫路市御国野町御着)

赤松氏の一族で西播磨最大の領主だった小寺政隆が1519年(永正16年)に築き、本城としました。当時は別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称されました。城内に山陽道や城下町をとり込んだ惣構えの平城であったとされ、1579年(天正7年)に羽柴秀吉に攻められ落城。城割が行われ廃城。官兵衛は、小寺政職に家督を継ぐまで御着城で政職の近習として仕えました。

 バス種類についてはこちらへ

(8)増位山随願寺(姫路市白国)

官兵衛の叔父、黒田高友は僧となり、休夢と称して増位山の地蔵院に住んだといいます。黒田休夢は和歌に秀でた人物で、秀吉に仕え御伽衆に加わり、九州遠征にも従いました。生母・明石氏とともに文人官兵衛に大きな影響を与えました。また利休とも付き合いのあった茶人で、官兵衛も利休との交流があった事が記録に残っています。休夢は官兵衛が有岡に幽閉された際には黒田家を支えたと言います。

 バス種類についてはこちらへ

(10)青山古戦場跡(姫路市青山)

官兵衛が300の勢で三千の赤松政秀軍を打ち破った地である青山は、現在ではゴルフ場となっています。「黒田官兵衛古戦場跡」と記された石碑の傍には、黒田家の家紋に描かれた藤の木や黒田家が財をなした目薬の木を植えるなど、ゆかりの地として武将としての官兵衛に思いをはせ、顕彰活動が続けられています。

 バス種類についてはこちらへ

(11)黒田家廟所(姫路市御国野町御着)

御着城址の一画に残った重隆と官兵衛の生母・明石氏を祀る廟所。関ヶ原の後、黒田家が福岡に移り一時は寂れていたが、造営当初の板墨書銘によれば享和2年(1802)、黒田藩十代藩主斉清の手によって再建されました。この墓所は資材を九州から運び込んできて造られ、廟屋を持つ立派な物で、周りの龍山石の石堀から内部は、昭和56年に姫路市指定史跡となりました。

 バス種類についてはこちらへ

(12)書写山円教寺/書寫山圓教寺(姫路市書写)

康保3年(966)、兵庫県姫路市西部に位置する標高371mの書写山に性空上人によって開かれ「西の比叡山」と称された。天正6年(1578)3月、三木城の別所長治の反乱により、姫路城にいた秀吉は別所氏と西の毛利氏に挟まれ窮地に陥ったが、官兵衛は苦境に陥った秀吉に播磨での本陣を姫路城から山内の十地坊に移すよう勧めたとされています。

 バス種類についてはこちらへ

(13)国府山城址(姫路市飾磨区妻鹿)

初代城主は、「太平記」で有名な薩摩氏長の子孫、鹿孫三郎長宗。長宗は元弘の戦(1330年頃)の折、赤松円心に属して功を立て、その功績により妻鹿地方を領有するようになり、ここに城を築いたといわれています。官兵衛の父・職隆は、天正元年(1573)に姫路城から国府山城に移り居城としました。天正8年(1580)年三木城主別所長治を滅ぼした秀吉は三木城を居城にしようと考えましたが、官兵衛は三木城の戦略的不備であることを進言し、自らの居城・姫路城を秀吉に譲り、国府山城に移り住みました。

 バス種類についてはこちらへ

網干陣屋跡・鶴松亭跡(姫路市網干区興浜)

天正8年(1580)、羽柴秀吉から網干を含む揖東郡壱万石を与えられた官兵衛は、そのお礼にと秀吉を網干に招待。松が生い茂る揖保川河口の沖之浜洲の陣屋で茶会を催したところ、秀吉の席近くの古松に一羽の鶴が見事な巣をかけており、秀吉が陣屋の名を「鶴松亭」にするように命じたといいます。天正8年(1580)、羽柴秀吉から網干を含む揖東郡壱万石を与えられた官兵衛は、そのお礼にと秀吉を網干に招待。

 バス種類についてはこちらへ

有岡城址(伊丹市伊丹)

あ有岡城(伊丹城)は戦国時代末期、天正2年(1574)、武将・荒木村重が伊丹氏に替わって伊丹城の領主となり大改築が施された城です。官兵衛は、村重の説得に向かったものの捕らわれ、城中の土牢に幽閉され、落城時に救出されました。現在では、遺構として石垣や土塁、堀跡などを残すのみです。

 バス種類についてはこちらへ

有馬温泉(神戸市北区)

日本三名泉や、枕草子の三名泉にも数えられ、江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付けされた人気と歴史ある温泉です。有岡城の幽閉で満身創痍になった官兵衛の傷を癒したのは有馬温泉だと言われています。秀吉も天正11年(1583)、湯治に初めて有馬を訪れており、その後も正室のおねを伴い、足しげに通いました。慶長2年(1597年)には、伏見地震で被害を受けた有馬温泉の改修工事も手掛けたといい、今でも地名の幾つかに太閤の名が残っています。

 バス種類についてはこちらへ

福岡城(福岡市中央区城内)

慶長5年(1600)、黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により、豊前国中津16万石から一躍筑前一国52万3千石に封じられ、名島城に入城。治世上の都合から名島城を廃し、旧珂郡福崎丘陵(現在の舞鶴公園・福岡城跡)を新城候補地に選定しました。黒田氏ゆかりの地・備前邑久郡福岡にちなみ、新城に福岡城、城下町には福岡と名付けます。

 バス種類についてはこちらへ

太宰府天満宮(太宰府市)

太宰府天満宮は、菅原道真公の御墓所の上にご社殿を造営し、その御神霊を永久にお祀りしている神社です。

官兵衛は、戦火に焼かれて荒廃していた「大宰府天満宮」に対して寄進・再建、さらに社領二千石を寄進した官兵衛を、天満宮は中興の祖とあがめました。

 バス種類についてはこちらへ

ご不明点やご相談などございましたら、お電話よりお気軽にお問合せください。

お電話でのお問合せ・ご相談はこちら

TEL :079-670-2727

受付時間:10:00〜20:00(年中無休)

お問合せ・ご相談はこちら

安く貸切バスを利用したいけど、
いったい何をどうしたら安くなるんだろうとお悩みの方へ

お電話もしくは無料相談フォームよりお気軽にご相談・お問合せください。

お気軽にご連絡ください。

  • ※注意
    貸切バスの種類で料金は変わります。
  • 結局費用はいくらかかるの?
  • 見積もり・旅程作成は無料ですか?
  • バスの種類と乗車人数はどうなるの?
  • バスの設備車内は?

といったお悩み相談でも構いません。
あなたさまからのお問合せをお待ちしております。

お電話でのお問合せ・ご相談はこちら

営業時間:10:00〜18:30 (日曜休)